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清水和夫環境コラム 〜京都議定書とプリウス 其の一〜

20080111

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 地球温暖化といえば「京都議定書(プロトコル)」を思い起こすほど「京都」は有名になった。日本の伝統を守り抜いている京都が環境の分野で世界の人々に知られることは、日本人にとって光栄なことであろう。実際、京都市の環境への意識は高く、様々な取り組みが行われている。
 
 ところで、京都議定書ではいったい何が取り決められたのだろうか。ここでもう一度、京都市で行われた「気候変動枠組条約第3回締約国会議」(いわゆる「地球温暖化防止京都会議」、「COP3」ともよぶ)の内容を振り返ってみようではないか。
 京都議定書の正式名称は『気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書』。ここで議決された内容は、地球温暖化の原因となりうる「6つの温室効果ガス」である「二酸化炭素・メタン・一酸化二窒素、代替フロン等3ガス(HFC、PFC、SF6)」について、先進国における削減率を、1990年を(代替フロン等3ガスについては1995年としてもよい)基準として各国別に定め、共同で約束期間内に目標を達成しようというもの。
 
 具体的には2008年から2012年の間に、日本はマイナス6%、米国はマイナス7%、EUはマイナス8%といった削減率を設定している。運用細目については、2001年の「気候変動枠組条約第7回締約国会議」(COP7、マラケシュ会議)にて定められた。
 ところが2001年3月に、世界でもっとも排出量の多い米国(ブッシュ政権)が京都議定書からの離脱を正式に表明。理由は「米国の経済や雇用などへの悪影響を与える」「中国やインドといった排出量の多い国にもかかわらず、途上国といったことで削減義務を負わないのは不公平」などだった。こうした紆余曲折をへて、2005年2月16日、京都議定書はようやく発効された。
 大ざっぱな流れを解説すると、以上のようになる。このころから、先進国のオピニオンリーダーたちの中で地球温暖化問題は最重要課題と認識されるようになり、いわゆる“国境を越えた議論”が交わされるようになった。とりわけ自動車産業会では、持続可能な自動車文明の発展を願っており、「地球市民」としての取り組みが行われるようになった。

 ところで、京都議定書が採択された1997年は、自動車業界に大きな激震が走ったといえる。今までの自動車の常識を覆すようなガソリン・ハイブリッド車である「プリウス」(トヨタ自動車)が誕生したからだ。
 ガソリン・エンジンの燃費を一気に2倍とするプリウスの燃費性能は、世界中の自動車関係者を驚かせたことは言うまでもない。低速では電気自動車として静かに走ることができるプリウスは、新しい自動車の価値を提供し、21世紀の自動車が登場したことを予感させた。

 プリウスのハイブリッド・システムは、エネルギーを回生する機構を持っている。分かりやすくいうと、走っている自動車において運転者がブレーキを踏んだとき、走行時に持っている運動エネルギーの一部を電気エネルギーとして回収できる。今まではブレーキで発生する熱(摩擦熱)として大気に放出されていただけだった。まるで、「エネルギーの貯金箱(実際は電気の貯金箱)」を持ったようなカラクリである。
 実は停止時に生じるエネルギーの損失を回収する「回生ブレーキ」については、電車などの一部では既に実用化されていたが、自動車にこの仕組みが搭載され、実用化されたのはプリウスが最初である。まさに、無駄をできるだけ排除するという日本人の“省エネ感覚”にも合っていたわけだ。そんなハイブリッド・システムが、これからの自動車のコア技術となることは間違いないだろう。
 
 ここではトヨタ自動車(以下、トヨタと略)の環境への取り組みの歴史を振り返りながら、プリウスが誕生した背景を考えてみたい。
 環境問題と共に歩んだ自動車業界30余年の歴史。それまで幾度となく訪れた日本の自動車メーカーの危機は、技術者が一丸となって努力したことでなんとか乗り越えてきた。例えば環境問題では、1970年代初頭に話題となった米国の「マスキー法」を挙げることができる。
 
 「マスキー法」とは、米国で1970年12月に改訂された大気汚染防止のための法律のこと。世界最大の自動車大国である米国自らが、それまでの自動車の排気ガスに対して大幅に厳しい排出規制をかけたのである(特に窒素酸化物については、当時、世界でもっとも厳しい排気ガス規制法といわれた)。その結果、世界の自動車メーカーはかつてない排気ガス規制対策に直面した。
 しかしこのとき、日本の自動車メーカーはこの厳しい基準をどこよりも早く解決した(具体的にはホンダがCVCCエンジンによってクリアした)。さらに日本の行政は、米国のそうした規制をにらんで日本にも厳しい規制を設け、各自動車メーカーに排気ガス対策の新たな技術開発を促したのである。
 
 排気ガス規制の問題が一段落する前に、新たなる問題が到来した。1973年ころから始まった、いわゆる「オイルショック」だ。日本では、このころから自動車のエンジンの燃費を大幅に改善する基本的な技術革新が研究開発されていたわけだ。このように、マスキー法とオイルショックを乗り切った日本の自動車メーカーは、環境技術でも世界をリードできる“資質”を備え始めたのであった。 其の二へ

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